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仙台高等裁判所 昭和36年(う)386号 判決 1961年10月24日

控訴人 検察官 紺野清吉

被告人 黒井弥一こと沓沢弥一

検察官 鶴田正三

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役六月に処する。

但し、この裁判確定の日から二年間、右刑の執行を猶予する

理由

本件控訴趣意は、山形地方検察庁新庄支部検察官事務取扱検事紺野清吉名義の控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。

職権をもつて調査するに、被告人に対する本件起訴状記載の公訴事実は、要するに、被告人が内縁の妻高橋トクエ(二四年)の承諾を得ないで堕胎させたという刑法二一五条一項所定の不同意堕胎罪に該当する事実であるが、原審昭和三六年一月二四日第一〇回公判期日において、検察官から訴因罰条の予備的追加の申立があつて「被告人が医師高田徹五と共謀の上……高橋トクエ(二四年)の承諾を得て……堕胎させた」旨の訴因(予備的訴因並罰条追加申立書記録一六四丁参照)を予備的に追加申立したのに対し、原審はとれを許可し、判決においては前記本位的訴因を排して予備的訴因に従つて原判示の事実を認定したのである。

しかしながら、高橋トクエと被告人の司法警察員および検察官に対する各供述調書瀬尾テイ子の検察官に対する供述調書、および原審第六回、第一三回公判調書中証人高田徹五の供述記載を総合すれば、本件は、次のとおりの事実であることが認められる。即ち、被告人と高橋トクエとは見合結婚で、昭和三四年一月一四日頃式を挙げて被告人方に同棲したが、正式の婚姻届はしなかつた。同年三月中被告人はトクエが懐胎したことを知つたが、三年ぐらいは子供を産まないで夫婦共稼と決めていた被告人は、トクエの懐胎を極度に不快に思い、かたがたトクエは気がきかないで被告人の母とも折合が悪いところから同年四月中トクエを離別しようと考えるに至つたが、出産すれば離別も困難になるので、その前にトクエを説得して堕胎させようと決心した。そして再三トクエに堕胎することを勧告したが、トクエは子供も欲しい一方出産すれば入籍してもらえると思つていたので、被告人の勧告を頑強に拒否したのである。そこで、被告人は、原判示の日入籍手続を執りに行くと偽つてトクエを連れ出した上産婦人科医に一度診察しておいてもらつた方がよいと言つて原判示の高田医院に同伴し、トクエには秘して医師高田徹五にトクエの人工姙娠中絶を依頼した。トクエは、ただの診察だけと信じていたが、同医師から人工姙娠中絶をすると聞かされ、驚いて手術台よりおりて診察室から逃げ出したが、さらに被告人から「堕胎しなければ別れる、堕胎すれば籍も入れる」と強硬に言われ、被告人と事情を知らぬ看護婦に手を引張られて診察室に連れこまれたため、遂に堕胎もやむなしと観念し、同医師から原判示の方法による人工姙娠中絶を受け、その日は被告人といつしよに帰つたが、一〇日程経つて離別されたのである。当審における事実取調の結果(証人高橋トクエの証言)に徴しても、右の事実認定に過誤は認められない。

以上の如く、被告人は、トクエに出産されては離別することが困難となるので、心にもない口実を設け、トクエの承諾を得ないで無理に堕胎させたものである。たとえ、その際トクエがこどもさえおろせば籍を入れるという被告人の言を信じて、堕胎することを承諾する旨の意思表示をしたとしても、それは任意にしてかつ真意に出た承諾ではない。即ち堕胎しなければ離別すると嚇かされ、かつ、堕胎すれば必らず入籍するからと言われて、騙されるとは知らずにこれを信用したればこそ、手を引張られて診察室に再び連れこまれたトクエが、堕胎もやむなしと観念し、堕胎することを承諾する旨の意思表示をしたものであつて、もし堕胎させて身軽にした上で離別しようという被告人の悪意を事前に知つていたならば、如何にしても承諾の意思表示はしなかつたことが明らかである。夫と同居し、籍も入れて法律上も夫婦と認められることは、トクエならずとも内縁関係にある妻のすべてが等しく願うところであつて、この点につき重大な瑕疵ある意思に基き、堕胎することを承諾する旨の意思表示をした場合には、任意にしてかつ真意に出でた承諾ということはできない。刑法二一三条(同意堕胎)、同二一四条(業務上堕胎等)ないしは同法二一五条一項(不同意堕胎)における婦女の承諾とは、その任意にしてかつ真意に出た承諾であることを必要とし、婦女において堕胎することについて責任能力をもち重大な瑕疵ある意思に基かない承諾であることを要するものと解すべきである。右に照したとえ前叙のようにトクエが承諾の意思表示をしたとしても、被告人の以上の所為は明らかにトクエの承諾を得ずして堕胎せしめた場合に該当し、同法二一五条一項(不同意堕胎)によつて処罰されるべきものと解するのが正当である。

以上の次第で、原判決が、被告人に対する不同意堕胎の本位的訴因を排して、予備的に追加された高田医師との共謀による業務上堕胎の原判示事実を認定したことは、事実を誤認し、ひいては法令の適用を誤つたもので破棄を免れない。

よつて、刑訴法三九二条二項、三九七条一項、三八二条、三八〇条によつて原判決を破棄し、検察官の量刑不当の控訴趣意に対する判断は後記自判の際自ら示されるので、ここでは省略し、同法四〇〇条但書に従つて、当裁判所において、さらに、次のとおり判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和三四年一月中高橋トクエと結婚式を挙げて同棲したが、まだ入籍もせず内縁関係でいる間に同年三月中トクエは懐胎した。ところが被告人は出産を好まず、かつ、トクエが被告人の母キクノとの折合も悪いところから次第にトクエをうとみ、離別しようと考えるに至つたが、トクエが出産すれば離別も困難となるため同女に堕胎させようと決心した。そして同年五月八日産婦人科医に診察してもらうと称し、トクエを同伴して新庄市上仲町一六五番地高田医院に到り、トクエには内密で同医院長医師高田徹五にトクエの人工姙娠中絶を依頼したが、トクエが事情を察知して手術台よりおりて診察室から逃げ出したので、被告人は「堕胎しなければ別れる、堕胎すれば必らず入籍する」と偽つてトクエに堕胎を強い、情を知らぬ看護婦と共にトクエの手を引張つて診察室に連れこみ、遂にトクエをして堕胎もやむなしと観念させた上、高田医師によつて鉗子等を用いて姙娠三ケ月の胎児をトクエの体外に排出し、以てトクエの承諾を得ないで堕胎せしめたものである。

(証拠の標目)

一、当審証人高橋トクエの証言

一、高橋トクエの検察官に対する供述調書

一、高田徹五の検察官に対する供述調書

一、被告人の司法警察員並びに検察官に対する供述調書

(法令の適用)

被告人の判示所為は、刑法二一五条一項に該当するので、所定の刑期範囲内で被告人を懲役六月に処するが、同法二五条一項を適用して、この裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。原審並びに当審における訴訟費用は刑訴法一八一条一項但書を適用して被告人には負担させない。

(原審弁護人の主張に対する判断)

原審弁護人は、本件は優生保護法に基く人工姙娠中絶で罪とはならないと主張するが、トクエに対し同法に基く人工姙娠中絶を行うべき必要があつたとは記録上認められないから、右主張は採用しない。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 細野幸雄 裁判官 斎藤勝雄 裁判官 有路不二男)

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